「松の内」ってどういう意味でしょう。
お正月飾りは「松の内」が終わったら片付けろ、とか初詣は「松の内」にすませる、とかいわれますね。
「松の内」っていったいいつまでなんでしょう?
ここでは、「松の内」の意味と由来、地域による期間の違いをご紹介します。
「松の内」の意味と由来
1「松の内」の意味
広辞苑によると、
「松の内」
正月の松飾りのある間の称
「称」は「呼び名」のことです。
松飾りがある間を「松の内」と呼ぶんですね。
松飾りは門松のことですが、家庭用には松の葉だけの簡略な松飾りもあります。
:松飾りを飾る期間
2「松の内」の由来
門松など松飾りを飾る期間が「松の内」ということですが、そもそもなぜ松飾りをするんでしょう?
松飾りは、年神さま(歳神、歳徳神)が依りついて宿る依り代(よりしろ)なんです。
この年神さまが家にいらっしゃる期間がお正月、「松の内」です。
1)年神さまとは
年神の「年(歳)」は稲の実りのことなんですよ。
年神さまは、一年を守る神さまで、田の神でもあり、家を守る神さまでもあります。
柳田國男は
・一年を守護する神
・農作を守護する田の神
・家を守護する祖霊の3つを一つの神として信仰した素朴な民間神が年神であるとしている
2)「松の内」:神さまが家に滞在中
いつもは山や田んぼにいらっしゃる年神さまが、お正月飾りを目印に私たちの家を訪ねてこられて、新しい年が始まります。
年神さまは、門松や松飾り、鏡餅などを依り代にして家にとどまられます。
この神さまの滞在期間が「松の内」、お正月です。
神さまが家にいらっしゃる間は、依り代やお供えを片付けるわけにはいきません。
年神さまが家を出て、山や田へ帰られたら、松飾りやお供えを片付けて「松の内」も終わります。
「松の内」の期間
「松の内」は門松などを飾る期間、つまり神さまが家にやって来て滞在されている期間です。
広辞苑では、
昔は元日から15日まで、現在は普通7日までをいう
でも、九州と関西で生活した筆者にとって、お正月飾りを外すのは1月15日でした。
「普通」じゃないのでしょうか?
1 「松の内」はいつまで
「松の内」の期間は、地域によって違います。
一般的には、
:1月7日まで
西日本
:1月15日まで
でも、実際には東京都内でも、地域によっては1月15日までとするところもあるなど、はっきりと区分することはできません。
✔例外も多い
・大阪や福岡など西日本はやはり1月15日が基本ですが、会社など1月7日に正月飾りを片付ける所もあります。
2 東と西でちがうわけ
二つの「松の内」期間ができてしまったのは、歴史的な理由からなんです。
日本の経済と文化の中心は、江戸時代半ばまでは上方(大阪・京都)。
その後、中心は江戸(東京)へと移りましたが、上方の伝統は残り、「松の内」期間は、東と西で異なることになりました。
1)初め:全国が1/15まで
江戸時代初めまでは、全国的に1月15日までが「松の内」(お正月)でした。
松飾りは、年神さまが山や田へ帰って行かれる15日には片付けて、地域や神社の「どんど焼き(左義長)」で焚いてもらいました。
1月15日は小正月とも呼ばれます。
松飾りと同じく年神さまの依り代だった鏡餅を食べる「鏡開き」も、この日に行いました。
2)江戸のまちは1/7に
江戸時代になって60年ほどたった頃、幕府は、「どんど焼き」を禁止するお触れを出しました。
「どんど焼き(左義長といいました)」がもとで火事になることを恐れたためです。
紙と木でできた江戸の町は、冬の乾燥した空気の中、いったん火がついたら燃えやすく、すぐに大火事になりました。
このお触れで、幕府はまた、お正月飾りを「1月7日で飾り納めにする」ようにと命じています。
ぜいたくを禁じる意味もあったのでしょうか。
この後、江戸では1月7日までが「松の内」になり、それが地方へと広まっていきました。
3)上方は15日を守る
一方、この頃大阪や京都は江戸よりもずっと都会。上方として歴史と文化を誇っていました。
元禄文化は、上方で栄えた文化でしたね。
江戸の新しい習俗を取り入れることはなく、松の内は1月15日のまま変わりませんでした。
終わりに
「松の内」とは、年神さまが家に滞在なさる期間。門松などお正月飾りをしお供えをします。
「松の内」期間は基本的に、東は1月7日まで、西は15日まで。
ただ入り混じっている地方もあるので、お住いの地域の方に確認なさってみてくださいね。